2026年 02月 03日
日本に行くか?行かないか?(11)
日本にいる義父と姑が福岡帰国者センターで日本語習い生活が半年間で終わった。
その時、日本政府がセンターでいわゆる"戦争孤児"達に、これから皆んなさまざま直面的問題はとても重視した。
あるの日、政府から1人職員はセンターにきた。
彼は皆んな前に"センターで日本語の習いもう終わった、これから皆んな行きたい所をあれば行ってもいいです、どの県でもいいです"と宣言した。
何日後、センターにいる残留孤児たちはそれぞれ行きたいところにいった。
そのまま福岡で留まる人がいるし、東京、大阪に行く人も行った。
姑と義父は宮城県仙台市を選ばれた!
その後、私が義父に"何で政治、経済的中心な東京に行かないんですか?"と不満に聞いたの、義父は"東京が人多くて、仙台は人から聞いたら、気候もいいし、山も海もあるし…… "と弁解していた。
そうすると、1992年の秋かなぁ?2人が仙台に行く事を決まった。
その後、仙台で定住した。
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by zaishuiyifang
| 2026-02-03 09:10
2026年 02月 02日
日本に行くかどうか?迷う…… (10)
日本にいる姑と義父は、私たち一家が早く日本に来てちょうだいと電話で何回も促した。
主人は迷わず日本に行きたいと私に話しした。
しかし、私は日本に行く事は反対だ!
だって、私の仕事が安定だし、給料もいいし。
もし私が日本に行く事をなったら、仕事を辞めるしかない。
だから、日本に行きたくないと思った。
そのほか、私の父親が"日本に行かないで"とはっきりと言った。
予想外が、母親は反対ではなかった!
あ~?
不思議なんだ!
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by zaishuiyifang
| 2026-02-02 14:19
2026年 02月 01日
姑と義父2人日本に飛んだ(9)
1992年秋、具体何日かなぁ私が忘れた。
姑と義父が北京から東京に行った!
2人が東京に着いたら、まもなく福岡帰国者センターに行っていた。
センター中にほとんど中国から日本に戻って来た日中戦争の残留孤児たちだった。
彼たちはセンターで日本語を習いながら、日本の習慣なども触って見ていていた。
姑は4歳頃中國に行ったから、日本語が全然話せなくて、日本語の勉強はゼロから習う必要だった。
センターが休み時、2人が偶に東京に行って、姑の姉と会う事もあった。
私と主人と娘がそのまま中国で生活している。
義父が日本から手紙がよく送ってくる。
手紙中に日本の事をいろいろと書いていた。
ある日、日本から一通手紙がまた届いた。
開けてみたら、中身が私たちも日本に来てほうしいと誘う事を書いていた。
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by zaishuiyifang
| 2026-02-01 14:49
2026年 02月 01日
姑さんが日本に戻ると決まった(8)
姑さんが日本で滞在2週間位した。
ある日、中国に帰って来た。
日本にいた時、自分が日本人の事を確認した、日本政府から認めされた。
ある日、姑さんが義父に"自分が日本に戻る事を決定した"と伝えた。
そしたら、義父が仕方なく、一緒に日本に行くと決め、その後、私と主人を伝えた。
2人ともに仕事を辞め、日本に行くの準備を始まった。
日本に行く前、姑さんが自分を育てた中国人養父養母の家に行って、最後養父養母と強く抱きしめて、3人ともに泣きた。
姑さんと私にこう話しした"小さい頃、養父養母が私にとても優しくて、その時お金がないけど、私が専門学校まで送ってもらった。このご恩が一生わすれない"と涙が溢れて言った。
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by zaishuiyifang
| 2026-02-01 11:29
2026年 01月 31日
姉さん(7)
姑の姉さんが姑さんより2歳年上。
家族皆んなもう日本に来た。
東京で住んでいた。
姉さんが子供が3人いる。
皆んなもう家庭を持つ、姉さんと別々に生活していた。
姉さんが"自分は遼寧省にいる夫婦を預けてもらって、その後、お母さんと一度も会って事がなかった"と姑さんに言った。
姉さんが姑さんに"是非日本に戻って来い、あなたが日本人だから"と強く誘った。
姑さんが日本に戻る"その場に約束した。
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by zaishuiyifang
| 2026-01-31 11:32

